スマート駄目リーマンの忘備録

旅行記、キャリア論、世相分析など思ったことを書き連ねます

長い春休み(東日本大震災の記憶)甘苦い抹茶アイス編

 今日はマレー鉄道の夜行寝台列車でバタワースに行き、そこからフェリーでペナン島に行く。10時くらいまでのんびりとして、宿をチェックアウトする。この宿も窓無しだったが、窓が無い宿は精神的にきつい。日照時間の少なさと自殺率について相関が一定程度認められるが、日光を感じないと気持ちがふさがってくるので合点が行く。

クアラルンプール駅にバスで向かう。マレー鉄道の窓口で本日の夜発のマレー鉄道、バタワース行きを予約する。まだ昼過ぎで、列車が出発する夜まで時間を持て余す。

市内をブラブラ散歩する。タワー型の展望台が目につき、そこに行こうとするが、土台が不安定そうで辞めることにする。

 読んでいる途中の本を公園で広げる。公園で勝間さんの本を二日がかりで読了した。組織を変えようと努力したかについて、自問を再開する。そもそも従業員数が数万の会社で、新人が組織を変えることが出来るのだろうか?会社は組織に疑問を持たせる余地をふさぐために、新人の頭を押さえつけ、洗脳しようとしていなかったか?私はその洗脳に抗うことで精いっぱいであった。派遣社員は安い給料で頑張っているんだから、正社員のお前らは文句言うな。士農工商よろしく、派遣社員をうまくスケープゴートにして、正社員をぼろ雑巾のように使い倒していなかっただろうか?

(配属一週間後に夜の八時までの残業申請をしようとしたら、残業代は夜の10時以降という謎のルールで申請が却下された。)

 小泉政権派遣社員の業種拡大が為され、私が所属していた会社でもユニホームの違う派遣社員と正社員が共存している独特の風景が見られた。当時の40代以上の正社員と、就職氷河期世代を皮切りにした30代以下の世代は正社員、派遣社員、請負社員の混成部隊。さらに40代以上の正社員は設計という直接業務から離れて、ふんぞり返っている人達が多かった。3次元CADも英語も出来ないおっさんたちの面倒を30代以下が支える歪な構造。他の会社でもきっとそうだろう。もちろん40代以上で立派にバリバリ仕事をこなしている正社員はいることはいる。

社員食堂では正社員は半額の補助があったが、派遣社員は全額負担のため、彼らは食堂では無く、外のベンチや事務所の机でお弁当を食べている人たちがほとんどだった。性能評価試験でお世話になった派遣社員は毎日カップラーメンを一つ持ってきて、それをすするだけ。同じ空間に同居しても、明らかな格差が存在していた。当然心理的一体感など望めるべくもない。待遇の不満を訴えて、団結するなど出来るわけも無い。

派遣社員、請負社員を安くこき使い、それをスケープゴートにして、正社員をさらにこき使う。うまく出来た搾取、支配構造だ。就職氷河期の影響で正社員の採用は絞られ、若手正社員にのしかかる負担はとんでもなく重い。それを跳ね除けて、成長を遂げる正社員がいる一方で、半数位は精神や体を病んで中途退職する若手正社員が後を絶たなかった。2007年に私が所属した5人のチームも私の配属後の一年で20代の正社員の若手が二人も辞めてしまった。二人とも限界まで耐えに耐え、ある日突然次の日から会社に来れなくなり、半分失踪するような辞め方だった。当然引継ぎや、送別会なども無い。残された私には二人分の仕事が降りかかってくることになる。

辞めた2人のうちの1モデリングデータベースを眺めると更新時間が朝の4時になっていた。この国は太平洋戦争時の参謀の無策で若者を戦地で大量に犬死させ、それに似た様な事を5060年後に行っているではないか。

私は歯を食いしばって踏ん張ることで精いっぱいだった。その後の2008年にはさらなる不幸が訪れる。リーマンショック。派遣切りが怒涛の嵐のように進められた。毎週金曜日は派遣社員のお別れの挨拶が夕礼で執り行われていた。従来派遣社員さんが行ってくれた評価も私がやることになった。設計と評価を一人で同時に行い、疲労困憊。設計室と評価センターを一日何度も往復することになった。はあ、辞めたい。しかしながら、2007年まで活況だった第二新卒の募集も各社一斉に凍結され、入社二年目の私は皆目身動きが取れない。純粋な中途として転職するにはキャリアが足らない。(入社三年未満)八方ふさがりの中、2010年までしがみついてきた。とりあえず、ひとつの壁である入社三年は通過したのだ。確かに組織を変えることは出来なかった。でも自分は逆境を耐えたんだ。今の会社を辞めても何とか食っていけるだろう。自分一人で組織を変えられないが、裏を返せば自分一人が抜けたところで会社は回る。モヤモヤした思いを振り切ってベンチを立つ。

宮城にいる会社の同僚や友達は一体どうしているのだろう?避難所で少ない配給で食いつないでいるのか?機転を利かせて、山形県秋田県に避難している人もいるのだろうか?

出来れば避難してほしい。本当に被災地にいなくてはならないのは高い給与を貰っている会社の役員をはじめ、部課長などの管理職であって、末端社員は自身の身の安全を優先してほしい。日本人ゆえの同調圧力で、一人で避難することは精神的に苦しいだろう。自分もその苦しさに押しつぶされそうになる。

 クアラルンプール駅の近くのスターバックスに立ち寄り、寝台列車発車までの時間をつぶす。考えるのをしばらくやめよう。席に腰掛け、窓辺に目をやると日本人風の美しい女性。試しにAre you Japanese?と声をかけてみた。Noという回答。残念に思い再び席につく。彼女はポーカーフェイスで煙草をくゆらせながら、コーヒー片手に英文の法律書のようなものを読み込んでいた。Noと言われたが、彼女に興味がわき、ちらちらと視線を送る。そうすると彼女がこちらにやってきて、一緒にコーヒーを飲もうと言ってきてくれた。お互い簡単な自己紹介を交わした。彼女の名前はCarmen Takkyで祖母が京都に住む日本人なのだそうだ。どうりで日本人と誤解したわけだ。今はオーストラリアの法律事務所で働いていて、現在帰省中とのことだ。私がよほど苦悶の表情で、考え事をしていたのだろう。彼女は一生懸命私を元気づけてくれて、一緒にハーゲンダッツの抹茶アイスを食べに行こうと私を外の店に連れ出してくれた。申し訳ないことに彼女が金を出してくれた。彼女に流れる日本人のDNAが抹茶を喚起したのかもしれない。抹茶のほのかな甘さと渋さが下の中で踊る。お互い連絡先を交換し、別れ際元気出してねと声をかけてくれた。自立心にあふれ、凛とした魅力的な女性だった。日本人女性特有の過剰な自己承認欲求が無い。彼女の黒髪の美しさが、夕焼けに映えて、別れた後も余韻を引いていた。また会いたい。

 夕方になり、クアラルンプールの駅舎に入る。駅の屋台で軽食を済ませ、バタワース行の寝台列車に乗り込んだ。中央通路を挟んだボックス席をベッドに改造し、三段ベッドにしつらえてあった。JR583系を想起させる構造だった。明日のバタワース着は早い時間なので、ベッドに横たわるとすぐに眠りについた。